2008年09月19日

因果の道理はどんな教え?

〜因果の道理はどんな教え?〜

因果の道理は仏教の根幹であり、お釈迦様の教えの根底にある
ということをお話しました。
ここまで聞くと、
因果の道理とは一体どんな教えなのか?
仏教の根幹と言うくらいだからとても難しいんだろうなぁ?
と思う人もあるでしょう。

因果の道理についてお経には次のようにあります。
「善因善果
 悪因悪果
 自因自果」

これはどういうことかといいますと
「良い行いをすれば、良い結果が返ってくる。
 悪い行いをすれば、悪い結果が返ってくる。
 自分のやった行いの結果は、自分に返ってくる。」
ということです。

これだけ聞けば当たり前のことで、子どもでも知ってること。
こんなものが仏教の根幹なのか?と疑問に思うでしょうが
お釈迦様をはじめ歴代の知識(仏教の先生のことを言います)が
力をいれて教えておられるのが、この因果の道理なのです。

中国の唐の時代に活躍した善導大師という方も
「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮」
(人に見える所であの人は素晴らしいと言われるように努力しなさい。
 そして心もきれいにし、悪いことを考えないようにしなさい。)
と悪を戒めて、善を勧めます。

時代や国を問わず、仏教で教えられているのは
因果の道理の教えなのです。

それでは今回はここまでです。
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2008年09月12日

お釈迦様の教えの根底にあるもの

〜お釈迦様の教えの根底にあるもの〜

「お経」と聞くと皆さんはどんなものを思い浮かべますか?

「釈迦が書いたもの」
「漢字ばかりで何が書いてあるか分からない」
「いろいろあるけど、どんな内容か分からない」
「すごい事が書いてあると思うけど、理解できない」
「お寺さんも詳しくないから分かりっこない」
といったところでしょうか。

まず初めに知ってもらいたいのは「お経」はお釈迦様が
書いたものではありません。お釈迦様が亡くなられた後で
お弟子の方々が書いたものなのです。

お釈迦様のお弟子の方々はとても頭が良く、優れた方々が
いたそうです。その方々がお釈迦さま80年の生涯の教えを
正確に書き残されたのです。
それは会議のような様子で、
「このときお釈迦様はこのように仰られた」
と司会の方が進めており、1人でも
「違う、そうは言われていない」
となれば、全員の意見が一致するまで話し合い
全会一致となって初めて書記の方が書き残したそうです。

お釈迦様の一生涯の教えを全て書いたところ7000冊以上の
膨大な量になったそうです。
当時は巻物に書き残していたので「七千余巻のお経」とも言われ
そのお経を全て運ぶために当時の馬の荷台七台半もの量であったため
「七駄片馬」とも言われています。

その膨大な量のお経の一冊一冊には私たちでは
理解することが難しい深い教えが詰まっています。
それも一冊が1ページ、2ページでなく何十ページであるため
ますます全てを読んで教えを理解することは難しいのです。

しかしその膨大なお経全てに共通して教えてあるものがあります。
それが「因果の道理」の教えです。
ですから因果の道理が分からなければ仏教は一生分かりません。
このことから因果の道理は「仏教の根幹」と言われ
大変に重要な教えだと言われているのです。

それでは今回はここまでです。
タグ:仏教 釈迦
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2008年09月10日

因果の道理は仏教の根幹

〜因果の道理は仏教の根幹〜

今写経が大変なブームになっています。
その内容は分からなくても書いているだけで心が静まる、といって
始める人がたくさんいます。
普段、雑多の中で生活し家庭や人間関係に疲れた人が
心の癒しを求めているのでしょう。

しかしその人たちも書いてさえいればなんでもいい、という訳ではなく
三大聖人、二大聖人といっても必ずトップに挙げられるお釈迦様の
教えられた教えだからこそ、
自分を癒してくれる、
自分の苦しみを和らげてくれる、
と期待しているのでしょう。

しかしそうやってお経の言葉にふれる人が増えてもお経の内容を
知らなければ、お釈迦様が80年の生涯をかけて仏教を説かれた
苦労が水の泡になってしまいます。
内容を知り、理解してこそお釈迦様の教えが身にしみて
本当に心から安らかになるのです。

ですが言うは易し行ずるは難し、と言われるようにそんな簡単に
理解できたら苦労はしません。お釈迦様が直に説法されても
人によって理解はまちまちだったのです。そのためにお釈迦さまは
亡くなられるまで休まれることなく説法をされたのです。

そんなもの自分には到底理解できない、と思う人もあるでしょう。
しかしお釈迦さま80年の教えを全て聞くよりも、お釈迦様が
何を伝えようと説法をされたのか、何に重きをおいて説法されたのか
を知ることが出来れば、全てのお経を読破したのと同じです。

ではお釈迦様は何に重きをおいて説法されたのか?
それは「因果の道理」であると言われており、そのため
「因果の道理」は仏教の根幹と言われているのです。
仏教の根幹とはどんなことか?
因果の道理とはどんな教えか?
それについては次回お話いたします。

今回はここまでです。
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2008年06月23日

毎日止むことのない財欲

〜毎日止むことのない財欲〜

今回は五欲の2番目の財欲についてです。
これもみなさんお察しの通り、お金や物を欲する心です。

私たちは毎日毎日汗水流して、辛い思いをして働いているのは
お金を稼ぐためでしょう。
お金が無ければ衣食住を満たせませんし
趣味や旅行、友人と遊びに‥‥といったときには必ずお金が必要に
なりますから、私たちが楽しく快適に生活していく上で
働いてお金を稼ぐという行為は必要不可欠といえるでしょう。

それならなぜ財欲が恐ろしい心なんだ?
と疑問に思う人もあるでしょう。

この理由も以前にお話しましたが、
他人を騙して蹴り落としてでも自分が利益を得たいという心だからです。

私はそんなことは思っていない。
お客さんのことを考えて商売をしています。
と反論される方は多いでしょう。

ここで「物を売る」商売を例に挙げてみましょう。
八百屋さんが「安いよ、安いよー!!」と声を上げて
お客さんを集めます。
「安い」という言葉に弱い人たちは興味深々に集まってきます。
そして普段よりも安いとこぞって買っていきます。
八百屋さんに限らず、「赤字覚悟」「お客様感謝祭」
とあるとお得だと思って買い物してしまいますよね。

上記のものはいずれも普段よりも安いというだけで
必ずお店側に利益があがります。
「お客様感謝」とあっても安いものの他に高いものも買わせて
普段よりも利益をあげようとしているのです。

このように書くといやいや私たちは本当にお客さんのために
商売をしています、と言う人もあるかもしれませんが
では商品を只であげるお店があるでしょうか?
ないでしょう。

商売である以上利益をあげなくてはいけません。
そのためにはお客さんの心をつかんで、財布の紐を緩ませるような
文句をいう必要があるからです。

この心を突き詰めてみると
他の店より自分の店の利益を。
他の人よりも自分の利益を。
他の誰が損しても自分だけは得したい。
という心になるのです。

それでは今回はここまでです。。
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2008年06月17日

美味しく、珍しいものが食べたい

〜美味しい、珍しいものが食べたい〜

前回は私たちが美味しい美味しいと食べているものでも
生きているものを殺して食べているのであって殺生罪になるのです、
という話をしました。

余談になりますが、穀物は大丈夫かというとそうでもないのです。
穀物を食べる虫や動物がいると、食い散らかされ収穫できなくなるため
それらを駆除します。

生き物を食べるわけでなくても、それが私たちの口に入るまでに
それが私たちの口に入るようにするために生き物を殺しているのであれば
それを食べて喜ぶ心があれば殺生罪なのだよ、と教えられています。


また美味しい、珍しいものが食べたいというのも食欲の心です。
地方限定品、この時期限定、元祖〜、という文字を見ると
「ここでしか食べれないのなら‥‥」
「今しか食べれないのなら‥‥」
「元祖というからにはそこらで売っているものとは一味違うだろう」
という心が出てきて、ついついお店に入ってしまう。
人間の心理をうまくついたお店側の戦略ですね。

普段はコツコツお金をためている人が旅先でドーンとお土産を買ってくる
なんていうのは良く聞く話です。
旅先の話を聞くとやはりお店側の戦略に負けて
買ってしまっているようです。

そもそもの目的を忘れてお土産を買うことに夢中になってしまうのも
欲の心に負けて、欲の通りに動かされている姿と言えるでしょう。

買い物に限らず目先の衝動で行動してしまい
後悔する人は少なくないでしょう。
恥ずかしいから思い出さないようにするかもしれませんが
そういった行動こそ教訓にしなければなりません。
「省みよ、省みよ、日にいくたびも省みよ。」と
仏教では己の行動を反省することを勧められています。

あれは衝動的だったなぁ、これは欲に動かされていたなぁ、と反省し
次からは絶対にしないぞ、と奮起することは善いと教えられています。
皆さんも心がけてみてください。

それでは今回はここまでです。
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2008年06月09日

みんなで喜んでも罪

〜みんなで喜んでも罪〜

私たちが普段食べている肉や魚も元は生きていて
私たちに食べられるために生きていて
喜んで殺されたわけではないのです、という話をしましたね。

スーパーで並んでいる時にはすでに捌かれていたり、すり身だったり
いろいろな形に加工されているために、それらを食べても
大して罪悪感を感じる人はいないでしょう。

しかしこれは仏教で教えられている悪(善の逆、悪い行い)の中の
「殺生罪」にあたるのだとお釈迦様は仰っています。

「殺生」とは文字通り「生き物を殺す」ということです。
現在の法律でも殺人を犯した犯人には他に比べて重い刑罰が与えられ
衝動的でない、計画的な殺人には死刑判決さえ課せられます。

仏教では生きているものに命の軽い、重いは無く
命はみな平等であると教えられています。
つまり人間だろうと、動物だろうと、虫だろうと
生き物を殺せば殺生罪になるのだということです。

そして実際に自分の手で殺さなくても人にお願いして殺したり
死んだのを見て喜ぶ心があれば殺生罪になるというのです。

自分で頼んで殺してもらっているのではない、という人もありますが
漁師さんや牧場の経営者、精肉屋、などなどの職業があるのも
肉や魚を食べる人があるためであり
ニーズが無ければそれらの人が無駄にたくさんの命を奪うことも
ありません。

そして私たちが肉や魚を食べておいしいおいしい、と喜ぶ心があれば
実際に殺している人たちと同罪である、と言われるのです。
この一緒に喜ぶ罪を「随喜同業(ずいきどうごう)」といいます。

これは食事に限ったことではありません。
ニュースで戦争や殺人事件などが流れるのを見て
面白がる心も随喜同業なのです。

しかし誰もその心が恐ろしい心だとは思っていないでしょう。
自分の不幸を笑われることには敏感でも
他人の不幸に関しては恐ろしく鈍感なのが人間なのです。

みんな同じだよ、俺だけじゃない、という意見は通用しない。
仏教は地位や財産、才能、の有無に関わらず変わらない視点から見て
お前たちは毎日大変な罪を犯しているのだよ、と教えられているのです。

それでは今回はここまでです。。
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2008年06月05日

誰も気づかない食欲の恐ろしさ

〜誰も気づかない食欲の恐ろしさ〜

前回は欲の心には5つあり、それを五欲と言います
という話をしましたね。

今回は食欲についてお話します。

私たちは毎日朝、昼、晩の3回または2回の食事をとっています。
中国製の冷凍食品が問題になって健康に良い食事に気をかける人が
ますます増えたかと思います。

人間は栄養を取らなければ衰弱し、死んでしまいますので
本能的に「〜が食べたい」という欲求が出てくるそうです。
甘いものが欲しくなるのは脳がカロリーを要求するからであり
また食べてすぐにカロリーになることも理由の1つだそうです。
なので甘いものを食べると無条件で喜びの感情が出てくるそうです。

このように生命の維持や集中力の維持に「食べる」と言う行為は
必要不可欠です。
ではどうして食欲が恐ろしいと言われるのでしょうか?

それは他者の命を奪ってまで自分の食欲を満たそうとするからです。

皆さんが普段食べている肉や魚はもともと私たちと同じように
生まれて生きたいたものばかりです。
生まれた場所が自然か養殖所かの違いはあれ、元は生きていたのです。
それを私たちが好んで食べると言う理由で
殺され、解体され、スーパーに並んでいるのです。

お魚天国という歌に「魚が僕らを待っている」という歌詞ありますが
自ら好んで食べられたいと言う生き物はいないでしょう。

魚が釣られて陸に挙げられた時にピチピチ跳ねるのは
陸では呼吸が出来ないため苦しくて跳ねているのです。

そんな様子を見て「鮮度が良い」と喜んでいる人は
魚が苦しんでいるのを見て喜んでいる、と言うことになります。

キリスト教では豚は神が人間の食用に作られたから
食べることは問題ない、といっているそうですが
もし仮に立場が逆だったらどうでしょうか?

人間が他の生物の食用で飼われていて
食べごろになったからある年齢の人間から食べられる
という状況になっても
「自分たちはあの生き物の食用だから仕方ない。」
「おいしく食べられることが自分たちの幸せだ。」
などと思えるでしょうか?

なんて残忍な生き物なんだ、と恨み呪いながら
毎日を過ごすことになるでしょう。

立場変えればこうなるのに、他の生き物を食べることに慣れてしまい
当たり前になっているために自分の恐ろしさに気づいていないのです。
無知は罪、と言われるように知らないから罪にならない
ということにはなりません。
むしろ自分の気づいていない所にこそ、人間の恐ろしさがあるのです。

それでは今回はここまでです。。
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2008年06月04日

人間の5つの欲

〜人間の5つの欲〜

前回は、無ければ無いで欲しい、
あったらあったらもっと欲しい、
欲しい欲しいでどこまでいっても満たされない
というのがよくの心の特徴であるという話をしましたね。

そんな特徴の欲の心をお釈迦様は更に5つに分けて教えられています。
それが次に挙げる「五欲」と呼ばれるものです。
@食欲
A財欲
B色欲
C名誉欲
D睡眠欲

これだけ聞いたらどんな欲の心か検討がついたかと思います。
どれも人間にとって当然出てくる欲ですし、
無ければ生活はおろか、生命の維持に関わるものばかりです。

しかし仏教で欲は三毒の煩悩の中に入るほど恐ろしい心であり
上で挙げた五欲も全て恐ろしい欲の心であると教えられているのです。


では何故これらが恐ろしいと言われるのか
次回詳しく話をしていきます。

それでは今回はここまで。
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2008年05月28日

本当の私を写す鏡

〜本当の私を写す鏡〜

煩悩についての話で仏教では本当の私とは
一体どんな姿をしているのかを教えられています
という話をしましたね。

しかし私の姿が教えられている、と言われても
「自分の事は自分が一番知っている。」
「他人に私のことがわかるはずが無い。」
「2600年前のインドの釈迦が言ったことが私に当てはまるのか?」
などなど思われるでしょう。

ではこちらから質問します。
「私」とは何でしょうか?

服や持ち物は「私の〜」と言いますから「私」ではありません。
体も「私の手」「私の足」と言いますから「私」ではありません。

じゃあ脳が私じゃないのか?と考える人もありますが
人間の体は日々細胞が造り変えられており
約7年でまるっきり違う体になるそうです。

もし脳が「私」なら7年前の「私」と現在の「私」では
まるっきり違うものになっているというと言うことになります。
しかし7年前も14年前もその前も現在と比べて
ガラっと変わったように思うでしょうか?

あまり変わっていない、ほとんど変わっていないように
感じるのではないでしょうか?
体中の細胞が入れ替わっても変わらない「私」という存在があり
物理的に見ることは出来ないその「私」について
仏教では教えられているのです。

物理的に見ることが出来ないのならどうやって「私」を知るのか?
仏教では「私」を見るために3枚の鏡があると教えられています。
その3枚の鏡とは一体どんなものなのか?

それについては次回お話します。
それでは今回はここまで。。
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2008年05月26日

底知れない欲の深さ

〜底知れない欲の深さ〜

前回、欲の特徴として欲しい物を手に入れても満足できず
まだ欲しいまだ欲しいという、という心が出てきてしまう
という話をしましたね。

仏教を教えられたお釈迦様は『大無量寿経』というお経で
そんな私たちの心を「有無同然」であると教えられています。

「有無同然」とは「有っても無くても同じく然り」と読みます。
どういう意味かと言いますと
「物やお金など人の欲しがる全ては有る状態も無い状態も全く変わらない」
ということです。

そう聞きますと
「なんじゃそりゃ、同じなわけ無いだろう!!」
「お金が無くて苦しんでいるんだから、有れば全く違うだろう。」
「貧乏と金持ちが同じなわけ無いだろう。」
「2600年前と今とでは文化や生活が全く違うんだから
 当時の釈迦が言ったことが、現在も通用する訳が無い。」
といろいろな意見が出るでしょう。

科学が発展して生活水準が上がったと言っても
持てる人と持てない人では大きな差が有ります。
私もお金持ちで無いのでもっとお金があったら毎日楽しくなるだろうなぁ
なんて考えてます(^^;)

ではお金の有る人はどうでしょうか?
どこからがお金持ちかは皆さんの認識次第だと思いますが
国会議員や官職といえばお金持ちに分類されるでしょう。
ではそんな役職の人はもうお金は十分だ、と言っているかというと
賄賂を受け取って捕まっているのはそんな役職の人たちです。

資産が何億円もある人が100万円の賄賂のために捕まった
というニュースを聞くと
「馬鹿なやつだなぁ、それだけあれば満足だろう」
と傍目から見れば思いますが、本人にとっては
「まだ欲しい、まだ欲しい」
という欲の心が出てきてつい出来心で、とやってしまうそうです。

無い人にも欲しい欲しいという心が出て来てしまいますが
有る人には更に輪をかけて欲しい欲しいという心が出てくるのです。

どこどこまでいっても満足できない、
どんなにお金や物を手に入れても満たされない、
そんな満たされない欲の心を持っているためにお釈迦様は
「有る人も無い人も満たされないで苦しんでいる。
 物の有る無しに関わらず苦しんでいる状態は同じなのだよ。」
と教えられているのです。

それでは今回はここまでです。。
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